公益財団法人 軽金属奨学会 設立60年史
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15第1章 財団設立の経緯つ合理的なビジネス術を鎧に、芯となるハートには常に日本のアルミニウム業界の礎になるという熱い志が秘められていた。■大人物の遺伝子を受け継ぐ財団 小山田裕吉というアルミニウムの鬼は、数々の人々とネットワークを結び、影響を与え合いながら、日本のアルミニウム産業を切り開いていった実業家であった。仕事にあっては厳しく完璧を求め、社員から畏怖されカリスマ視された一方で、オフタイムには軽妙洒脱、ユーモアたっぷりの会話で常に座談の中心となる教養人でもあった。 アメリカで学んだ語学、経営学で、欧米人とのビジネスにおいて互角以上に渡り合うモダンな国際人の顔を持っているかと思えば、強者には頭を下げず、弱者や恩顧を受けた人には、いつまでも礼を尽くす義の人という古風な面も併せ持つ、人間性豊かな人物であった。 アメリカ流のビジネスを身につけた近代人であったが義理人情に厚く、経営が苦しくなった取引先を怜悧に整理することなく支援の手を差し伸べて、企業再生の手伝いをしていた事例は少なくない。また、戦後の占領政策でパージにあった恩顧の人らを、陰になって人知れず支えた話も、追悼録で明かされている。軽金属奨学会の運営を「陰徳」と位置づけていたのも、こうした情に厚い人柄と通底している。 小山田は、東洋アルミニウムを、国内最大のアルミ箔メーカーへと導いた名経営者であったが、目先の利益だけに汲々とする単なる“儲け屋”ではなかった。輸出解禁となった戦後間もなくの頃には、「国際品質に能わず」という理由で、同業者が輸出で大儲けするのをよそに、かたくなに国内市場に専心し、品質が良くなった段階では、国内市況が有利でも、常に相応分の輸出枠を確保する骨太の経営者であった。一方では、経営を左箔など、アルミニウム製品としてはまだ国内にあまり普及していなかった方面を開拓していくことになった。■羽左衛門似の美男子 帰国して、アルミニウム人としての経歴をスタートさせた小山田は、端正なマスクと日本人離れした長身、スマートなビジネス能力で、たちまち周辺の人々の耳目を集めていった。 在りし日の小山田を知る人が、思い出を語ると、必ずといっていいほど話題に上るのは、その甘いルックスである。眉目秀麗で長身の美男子という一般的な形容は、小山田の若かりし頃の写真を見れば誰もが納得をする。当時の歌舞伎界で“前髪役者”として一世を風靡したいい男、15代市村羽左衛門にそっくりの風貌は、住友グループでも“住友3美男子”と謳われたほどで、結婚して小磯良平画伯の妹を妻に迎えたあとも、自宅界隈ではご近所の奥方たちをうっとりとさせていたという。 部屋に入ってくるだけで、周囲が華やかになったというスター性を持った男が、隙のない洗練された英国紳士スタイルのファッションに身を包み、アメリカ仕込みの流暢な英語で、ばりばりと仕事をこなすのである。米国から帰朝してすぐに、誰もが小山田の人間的な魅力の虜となっていったのは無理もない。 小山田は、亜細亜アルミナムで4年間顧客を開拓したあと、1931年(昭和6年)に、住友とアルキャンの合弁会社、住友アルミニウム株式会社が創立されると、同社へと移籍した。アルコアが保有していた亜細亜アルミナムの持ち株は、住友が買い取ることになった。 “住友3美男子”と評されたのも、これ以後のことである。甘いマスクとダンディなファッションで、周囲を引きつけた小山田だが、もちろん外見だけの男ではなかった。米国流のスマートか

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